傷みを知った者の強みとは

人を支える事で自分が役立っていると感じられる。これを直接感じられる仕事はケアワークです。一方でケアされた側が感謝を述べない、批判するなどの返り討ちに合った場合のケア提供者の痛手は凄い。ここが感情労働の疲弊するところです。誰だって自分が提供したケアで感謝されたいのです。幸運にもケアを受けて立ち直った人たちが、同じ様にケアを提供する側に回りたいと感じる事も自然です。同じ経験を分かち合えるぴあカウンセラーは素直な共感を感じられ、虐待サバイバーや中毒患者同士などの間で必要とされているのです。

カウンセラーとは何者か

先日Tweet上で「個人的経験をセラピーで述べてはいけない」と言うルールが回ってきましたが、私には奇妙に感じました。もちろんこのルールを極端にとるつもりもありません。私が感じる奇妙さとは、この言葉に「健康で完全な人のみがカウンセリングを行い得る」と言う意味が含まれている事です。現状では「ピアカウンセリング」はカウンセリング技法の亜流と考えられていますし、虐待等のサバイバーが自己開示してカウンセラーとなっていくことも、カウンセラーの中では歓迎されてはいません。
本当は、誰だって言わないだけで傷つきを体験している人がほとんどです。「私」と言う人間は経験の塊であり、その経験を述べないのだとしたら一体誰になるのですか?

私達カウンセラーはフロイトや、河合隼雄の焼き直しではない。

なぜ傷つきを隠すのか

 カウンセリングとは権威を持つもの、従うものの関係がはっきりとしています。それは初対面の人をカウチに寝かせた技法にも表れているでしょう。見知らぬ人の前で横になるとは服従の証です。もしもカウンセラーが傷つきを体験したことが露になれば、この「権威」が利用できなくなる事を恐れているのです。自信満々に述べた言葉はそのまま「権威」に乗せられて「正しい」ものとなるからです。

傷みを知った者の強み

 傷みを知ったカウンセラーはこの恐怖を知っています。経験した者だけが傷みを知り、癒す事ができると言っているのではありません。傷みを知った者にもカウンセラーとなれる、しかも恐れを持って慎重にできる。

 私達カウンセラーが恐れるべきは、自分の中にある権威への欲望なのです。

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